八木仁平さんのYouTube動画を見て「自己理解」について興味を持ち、私もワークシートに取り組み始めた。
自分の価値観ってなんだろう?
自分のやりたいことってなんだろう?
自分の好きってなんだろう?
考えて色々と深掘りしてみたけれど、なかなか納得できる答えに行きつかない。
ワークシートをやるだけでも、結構なエネルギーを消費する。
整理するまでまだまだ時間がかかるけれど、ブログでも私の過去の経歴を振り返ってみようと思う。
私は過去、どんな風に考えながら、人生の選択を歩んできただろうか。
●中学時代
私は公立の中学校に通っていて、テニス部に所属していた。
テニス部ではいつもビリかビリから2番目ぐらいの成績で、得意な子に比べると、自分はどれだけ頑張っても運動では勝てないと悟った。
逆に勉強は結構できる方で、大して努力しなくても大体学年10位以内には入っていた。
中学時代、私は趣味で絵を描くことにハマっていた。
幼少期から絵を描いて自分の理想をカタチにすることが好きで、漫画雑誌のコンテストにイラストを応募して掲載された時は嬉しかったし、その他イラスト関係のコンテストに応募した事もあった。
ある日私は講談社からイラストスクールの勧誘を受け、私は親に泣きながら「やりたい!」と言った。
しかし、親には反対された。そのイラストスクールはなかなか高額であり、「民間のイラストスクールにお金は出せない。美大を目指すのなら応援はできる」といったような事を言われた。
今なら親の気持ちが理解できるが、当時の私はやりたいことに反対された悔しさでいっぱいだった。
高校の進路選択の話になった時、幸運なことに私の家の近くに芸術コースのある公立高校があった。
そこは推薦入試なので筆記試験はなく、実技試験のみだった。
私は絶対にその高校に行きたい!と思って実技の練習を頑張り、成績優秀で内申点も良かったので、推薦入試を突破することができた。
●高校時代
その高校では絵の上手い人たちがめちゃくちゃ集まってきていて、私はそんなに絵が上手くない、才能もないことに気付いた。
でも絶望とかは特になく、高校の友達と毎日楽しく学校生活を送っていた記憶がある。
文化祭も楽しかったし、放課後残って油絵を描いたりとか、その高校でしか出来ない体験がいっぱい出来たなと思っている。
学力は中学時代の頃から変わらず、学年10位以内をキープしていた。
大学受験の時期になると、私のコースでは美大を目指す人、総合大学を目指す人など、さまざまな分野に選択が分かれた。
絵はそんなに上手いわけじゃない、学力はあった私は、そこそこ偏差値の高い総合大学の芸術学部に進学した。
大学受験は結構大変だったけれど、受験講習のお昼休み、友達と一緒にコンビニへ買いに行き、カップ麺を食べるのがとても楽しみで幸せだった記憶がある。
●大学時代
遠方の大学へ進学したので、私はそこでひとり暮らしを始めることになった。
結論から言うと大学時代は自分にとって、辛くて暗くて長い道のりだった。
楽しい思い出もあったけれど、辛いことが多かった。
何か人から迫害されたとか被害を受けたとか、そういうことではなく、すべて自分自身の問題である。
芸術学部に進学した私は1年生の頃、友達もできてサークルにも入って、飲食店のアルバイトもやって、彼氏もできて、順風満帆とも言える学生生活を送っていた。
2年生になって半年が経った頃、私は何故か突然学校に行けなくなった。
今まで「真面目な優等生」として生きてきた私が、初めて躓いた瞬間でもあった。
何故学校に行けなくなったのか。自分の中で完全にエネルギーが枯渇してしまったのを覚えている。
学校に行かなきゃいけない。でも体が動かない。学校に行くのが怖い。友達はみんな普通に学校に行ってるのに、自分はどうして行けないんだろう。
親に申し訳ない気持ちはあった。それでも身体は動かなかった。
中学時代や高校時代クラスに不登校の子がいて、他人事のように思っていたけれど、まさか自分が当事者になるとは思わなかった。
今思えば大学時代は、あまりにも「他人軸」で生きすぎていて、本当の自分を見失ってしまったんだと思う。
精神的に不安定な日々が続き、元気な時もあれば落ち込んで何もできない日もあった。
元気な時に唯一、私がやりたいと思ってやれたことが、「歌を歌う」ということだった。
誰からやれと言われたわけでもない、自分がやりたいと思ってカラオケに行くことを始めたら、めちゃくちゃ楽しくてハマってしまった。
カラオケで歌っている時だけは、本当の自分でいられる気がした。
今もそうだけれど、友達から「歌ってる時が一番楽しそうだよね」って言われたことがある。
当時は「大学に行くこと」がやるべきことであるのに、それができていない自分にもどかしさをずっと感じていた。
今思えば、「他人軸で生きないで」という悲鳴を身体があげていたのかもしれない。
それに気付かないまま月日は過ぎ去り、親や大学の教授のサポートもあって、2留しながらも何とか大学を卒業することが出来た。
卒業できたのは、「とにかく就職のことは忘れて、今は“卒業”だけを考えたらどう?」という教授のアドバイスがあり、目標が明確になったことで頑張ることが出来たんだと思う。
またその頃、私は「推し」に出会って、生きる活力をもらうことができた。
今まで芸能人なんて全然興味がなかったけれど、「推し」に出会ってからは人生がガラリと変わった。
推しを見てるだけですごく元気をもらえるし、推しが出てる番組が見たいから「生きよう」って気持ちが湧いていたと思う。
●大学卒業後
大学を卒業し、私はひとり暮らしを辞めて一旦実家に戻ることにした。
親は「早く就職しなさい」とは言ってこなかったけれど、自分としては「早く自立したい」という気持ちがあり、就職活動をがむしゃらに頑張っていた。
「いい大学出てるのに、何故うちの会社なんか選んだの?」と言われることもあり、これは就職後もそうだけれど、「逆学歴差別」を受けることがあって辛かった。
まるで「勉強はできるのに、無能なんだね」って言われているようで…。
世間一般で見たら高学歴は羨ましいと思われるのかもしれないけれど、私は自分の大学名を言うのが辛かった。
いい大学出てたら、立派な会社に入らないといけないの?ってモヤモヤしていた。
就職した後に、取引先の方に自己紹介をする機会があり、自己紹介シートを書かされたんだけれど、正直に大学名を書いたら、何故か上司から大学名を訂正されて取引先の方に偽りの自己紹介シートを渡したという出来事もあった。
じゃあ、学歴の欄なんて最初から作るなよ!ってめちゃくちゃ悲しくなったのを覚えている。
話が逸れたけれど、とにかく辛い思いをしながら就職活動を続け、何とか正社員で就職することができた。
●入社後
就職活動の時、ほとんどの会社で落ちまくっていたが、唯一内定をもらった会社があった。
とにかく正社員になって自立したかった私は、プライドも何もなく、「誰でも入れる」と言われてるその会社に入社することを決めた。
初めて就職することにあまり不安は感じておらず、こんな私でも認めてくれる会社があった、という喜びの気持ちが大きかった。
私は営業部に配属されたが、実際にやる業務は「販売職」だった。
入社してすぐろくに研修を受けることもなく、現場の仕事をすることになった。
ミッションは「とにかくお客様に声をかけてきて、カウンターに連れてこい」というもの。
緊張でガチガチになりながらも、私はひとりひとりのお客様に声をかけて、ヒアリングと商品の提案を行なった。
その時は営業トークのやり方なんて一切知らなかったから、ひとりもカウンターに連れてくることができなかった。
今思えば、営業なんて全然自分に向いていなかったのに、よくそこから頑張ろうと思えたね…って改めて思った。
辛くても心を麻痺させながら、働いていたんだと思う。
それから色々な現場に異動になったりして、大変なことがありながらも、人間関係には恵まれていたから、続けることができた。
何年経っても営業は苦手で、新人にもあっという間に成績を抜かされたりしていたけれど、相変わらず勉強だけは得意だった。
現場独自の資格試験が何回かあり、私はその地域でだいたい上位に食い込んでいた。
みんな資格試験って嫌がっていたけれど、私は資格試験の研修を受けるのが大好きで、その時間は営業をやらなくていいから楽だった。
この経験が、のちの私の人生に大きく影響を与えることになった。
●退職
やりたくない仕事を続けて、8年が経過した。
9年目に突入するころ私は異動になり、チームリーダーとなった。
しかし異動になってからわずか3ヶ月で、私は退職することになった。
異動になってから、人間関係も仕事内容も大きく変わり、私は大きくストレスを抱えることになった。
異動前と違って、私を褒めてくれる人は誰もいなくなり、逆にめちゃくちゃ怒られる機会が増えた。
チームも全然まとまらず、すっかり自信を無くし、休日も仕事のことを考えては涙する日々が続いた時に「この仕事を続けていたら、私の心が死んでしまうな」と思って、その場で上司に電話して退職を申し出たのである。
上司は私の話をじっくり聞いてくれた。
今の仕事がきついならやらなくていい、異動前の部署に戻るとか、別のプロジェクトならどうか?という提案もしてくれた。
しんどいなら休職して、しばらく休んでから復帰することもできる、とも言ってくれた。
だけど私の心は動かなくて、その時は「退職したい」という一心だった。
8年間も続けた会社を辞めるってすごい勇気がいったんじゃない?と言われたこともある。
もちろん、退職するのに一切の迷いがなかったわけではない。
退職後にちゃんと再就職できるのかな…とか、本当に今までのキャリアを捨てて良いんだろうかとか。
迷いながらも私は退職に踏み切り、晴れて無職となったのだった。
●無職時代
無職時代は本当に楽しくて充実していた。
会社員時代に行けなかった長期旅行に行ったり、美容整形をしたり、やりたい放題やっていた。
前の会社の有給が1ヶ月以上残っていたのと、貯金もあったから、お金には困らなかった。
やりたいことをやり尽くした後、私は転職するためにまず「学校に通おう」と思った。
お金は決して安くなかったけれど、人生を変えたいと思って、私は資格スクールへの入学を決めた。
何故私がスクールに入学したのかというと、実は前職の時にYouTubeを見ていて、職業訓練校に通ってから転職した人の話をふと思い出したからである。
大学時代、学びを必死にやってこなかった、本当の意味での充実した学生生活を送れなかった、という後ろめたさもあって、「学校に入り、学びに夢中になる」という経験をやりたいと思ったのである。
資格スクールのカリキュラムはかなりタイトで、私は必死に食らいついていった。
大変なことも多かったけれど、これが私の青春なんだな、と感じることができた。
先生にもいっぱい褒めてもらって、「あなたこの業界向いてるよ、うちの業界で働いて欲しい」と言われたりもした。
お世辞だとわかっていても、「私ってこの仕事向いてるんだ!私が選んだ道は合ってるんだ!」という自信に繋がった。
資格試験にも合格し、そこから転職活動を始めた。
自腹で資格スクールのお金を払い、資格に合格して未経験職に挑戦するといった私の熱意が功を奏したのか、私は4社から内定をもらうことができた。
大学卒業後の就職活動はあんなに苦労したのに、こんなにあっさり内定もらっていいの?って、少し困惑した。
あまりにあっさり内定が決まったから逆に悩んでしまって、業界の人にアポを取って有料カウンセリングを受けたこともある。
一時的に内定ブルーには陥ったものの、何とか乗り越えて、私は今の会社に入り、現場に配属された。
●今の会社
今の仕事はIT技術職、といってもまだ2年目でそこまでスキルがないので、底辺ITエンジニアという表現がぴったりだろうか。
現場に配属され、その施設のネットワークやサーバーを運用管理するチームに、下っぱとして所属することになった。
知識や経験がなく、大変なことも多かった。
でも、それをストレスだと感じたことはほとんどなかった。
勉強をすることは苦ではないし、ネットワークやサーバーの仕組みを理解していくのが楽しかった。
私の性格的にこの仕事が向いてるんだな、と思うようになった。
●なりたい自分とやりたいこと
私の中で「なりたい自分=成長し続ける自分」であるが、それが「やりたいこと」に結びついてるかといったら疑問である。
ITの仕事はやっていて楽しいけれど、お給料をもらわずボランティアでやるか?と言われたらNoだ。
お金のために頑張っているのも否めない。
じゃあ、お金をもらわなくてもやりたいことってなんだ?って考えたら、「歌を歌うこと」になる。
だけどそれは「人の心を動かす歌手になりたい」って思いはなくて、ただ自分が歌っていて楽しいし夢中になれるから歌う、といったもの。
他人のためではなく、自分のためであるのだ。
「やりたいこと」と「他人に価値を提供すること」がリンクする感覚が、私にはまだ分かっていない。
得意なことを仕事にして、やりたいことは趣味でやる。
それが私の生き方だと現時点では思っている。
価値観シートを進めていくと、それも変わったりするのだろうか。
何か今後の人生を生きていく上での気づきになれば良いなと思って、今日も自己理解のワークシートに向き合っている。